火曜日にはため息をついて

 声は上がらない。というよりも、そんな暇は与えなかった。中年特有の、何とも言えない匂いをかぎながら郁は思う。
 ……やっぱり、まだ駄目だなあ。郁は自分の手元を見ながら思う。まだ、本調子ではないようだ。つい先日、手入れのときの不注意のせいで右腕を少し痛めた。そのせいか、加減があまり効かない。
「でもまあ、任務完了かな」
 締めた紐を緩める。どさ、とソレは落ちた。郁はしゃがみこみ、瞳孔を確認した。よし、開いてるわね。
 脱いだコートをさっと羽織り、郁は商売道具を太ももに巻きつけた。ぎち、っと音が鳴るまで巻きつけ、辺りを確認する。音もなし、取り分け異常も無し。
「さて、帰りますか」
 顔は見られていないはずだが、記録に残っても困る。窓を開け放った。最後に、と振り返った。整った調度品の数々を見ながら……ああ、いいとこに泊るよなあ。なんて、のん気なことを少々思いながら窓枠によじ登る。よいしょ、なんて掛け声が似合いそうに郁はそのまま飛び出した。
 ただ今の現在地――某郊外のホテルの最上階である。いや、正確には外かな。と郁は思い小さく笑った。
 作戦のため、コートの下は薄いワンピースである。ターゲットの油断を誘うため、だ。以前は郁がそんなことをしたところで効果はあるのか、とは思ったが友人の保証つきなので安心だ。だが、郁は思う。
「これって、脱出時パンツ丸見えだよね……」
 先ほどの男の嫌らしい目つきも少々耐え難い。しゅるしゅると少々耳障りな音を聞きながら、口にする。周囲は確認したので人はいなかったが。
「脱出手段、もう少し考えようかな」などと考えながら、何事も無かったかのように地面に降り立った。

 手を振る。おはよう、と口だけ動かした。あちらは見えないが、きっと手を振り替えしていてくれるところであろう。案外、そういうところは付き合いがいい友人であった。最新の警備システムをやりすごし、郁はようやく室内へと入ることが出来た。
「ねえ、声紋ってやめたんだっけ」
「ええ、効率悪いからね。角膜で十分よ」
 自分の愛用のカップに、ドリップを入れながら郁は相棒の隣に腰をかけた。
「で、仕事は上々かしら?」
 あは、と郁は笑う。
「じゃなきゃ、ここにはいないでしょう」との郁の言葉に柴崎も笑った。
「そうねえ、まあ社交辞令じゃない。あんたの実力なら、問題ないと思ってたわ」
 郁は咄嗟に身構えた。この、皮肉が取り柄といってもいい友人からこんな素直にお褒めの言葉をいただけるとは!
 さては、何かあるな。そう勘ぐっていると柴崎は案の定青い封筒を郁に手渡した。
「あんたへ、ラブレターよ」
 うらやましいわ、と柴崎はからかう様に口角を上げた。郁の反応を楽しんでいるようだ。そんな柴崎を尻目に、郁は自分のデスクへと戻った。
 A4サイズの封筒を開ける。書類が、10枚ほど。中身は大して問題ではない。いつもと同じような依頼なのであろう。郁を悩ますのは――封筒の方であった。青い封筒、それは郁のいる会社――ソトから見たら組織だろう――の社長直々の依頼、ということなのである。郁は立場上、それは度々貰うことがあった。現在郁のいるビルは――郁が管理をしているのである。依頼の正確さのみで役職が決まる、それが郁のいる場所であった。
 デスクトップを立ち上げ、スケジュール帳に書き込みをする。外部からハッキングは受けぬよう、社内のみのネットワークにしてあるパソコンである。如何なる状況であっても、外部に依頼人の情報は漏らさない。それが、わが社の社長の方針である。とまあ、ここだけ聞けばただの一般企業と変わらないのかもしれない、と郁はキーボードを叩きながら思った。文面さえ無視すれば、柴崎のしてることってOLだよなあ。郁は所謂依頼を実行するヒットマンであるが、柴崎は事後処理する情報操作係も担当するが直接は手を下さない。まあ、OLはそういうことしないのかな、なんて考えていたら背後に気配があった。プライバシーも何も遠慮なく、柴崎が郁のデスクトップを覗き込む。
「あんた、相変わらずセンス悪いわねえ」
 とんとん、とソレを指した。
「何も依頼を『デート』なんて書くことも無いでしょうに」
「良いじゃない」
「外回り、とでも書いたら?」
 柴崎がおかしそうにくすくすと笑った。
「あんたの言語センスもどうかと思うわよ」
 なんて言えば、柴崎は「あんたよりマシ」と席へと戻った。郁はちらりと柴崎の手元を見る。ああ、外してる。
「柴崎、今日はランチ外行こう」
 了解、と書類越しに返事があった。どうやら、また男と別れたようだ。彼女も、あまり続かないな。そんな他人の事情を思っていたら、自分と篤のことを考えてしまった。
 ……後で、聞いてもらおうかなあ。
 そこで一旦頭を切り替え、郁は社長からの書類に目を通した。明日の水曜日、二時かあ。場所は郊外のマンション、となっている。何か、会合でもあるのかも知れない。獲物の指定が珍しくあった。郁のあまり得意ではないライフルだ。と言っても、外しはしないけれど。外見の特徴は……短髪長身、と。添えられた写真を見る。中々の男前であった。とまあ、それは依頼とは直接関係は無いが。さて、こいつは何をしたのだろうか。郁の会社は依頼を受ける際、事実関係も必ず確認をする。トラブル回避のためでもあった。
「うわ、麻薬密売してかつ組織の金横領か」
 これは、恨まれても仕方ないな、と郁はファイルを閉じた。

 目の前の女は、珍しくピザを一枚平らげその上更に注文までしていた。どうやら、やけ食いらしい。郁の予想は当たっていた。いつもなら、美容のためだと手は出さないのだ。
「郁も食べる?」
 いい、と遠慮をした。目の前の柴崎を冷静に観察する。
 ――失恋してそれだけ食べられる、女という生き物はやはり強いなあ。
「何、あたしの顔に何か付いてる?」
「なんでもない。お疲れ」
 ふう、と柴崎はため息をついた。
「指輪、投げ返してやったわ。全く、何であんな男がよかったのかはわからないわ。暫く、ひとりでいいわ」
「うん」
 慰めの言葉など、いらないのだろう。返って傷つくタイプだと、郁は長年の経験から知っていた。
「ねえ、あんたたちは? 前は……あまりうまくいってないって言ってたけど」
「うん、そうなんだよね」
 郁は、少し目を閉じた。柴崎には「腹違いの姉」として篤に紹介をしていた。結婚の際、郁は篤をだましている。両親、と紹介したのは郁の雇った俳優だ。完璧にしたかったから、嘘をついた。ぼろが出ないための、柴崎であった。 それからというもの、柴崎も自分たち夫婦のことを気にかけてはいてくれる。
「昨日、結婚相談所行ったんだけどさ……」
 食後のコーヒーを口に含みながら、言葉を続ける。
「悪化した」
「場所、悪かったんじゃない?」
「……どこでも同じだと思うよ」
 篤に提案したとき、ものすごく反対されたのだ。なら、きっとどこでも同じだ。二人が同じ気持ち出なければ、また同じ結果しかでない。
「原因、わかるの?」
 郁は首を振る。もしあるとすれば……
「出張、かも」
 お互い、出張の多い仕事であった。郁も依頼の度、家を空けねばならないのでしかたない。篤も、度々家を空けていた。一人じゃ広すぎるから……と郁がもう一つベットを買ってから、ベットを共にすることは殆どなくなっていた。先日のカウンセラーの言葉が突き刺さった。
「やっぱり、行かなきゃよかったかも」
 あんたにしては珍しく後悔してるのね、と柴崎が慰めてるのかわからない言葉を言う。
「……あたし、パフェ食べようかな」と郁が言うと、あたしは餡蜜と柴崎がにっこりと微笑んだ。

 しまった、遅くなった!
 郁が急いで家へと入る。バタバタと走りながら服を脱ぎ捨て、エプロンをつけた。篤は、今日は早かったはずだ。柴崎とランチをゆっくりとしていたせいで、仕事が伸びてしまったのである。十五分で支度を終え、セッティングをすると玄関の音がした。帰ってきたようである。篤は仕事から帰ると一旦自室へと入り、上がってくる。何とか郁が体裁を整えた後、ダイニングへとやってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 にこ、と笑え。笑え、と自分に言うものの篤の前では如何しても出来ない。友人の前でなら、平気で出来るというのに。静かに篤は席に着いた。
 静かな夕食の時間を好む人間もいるだろう。食を楽しむタイプの人はそうかもしれない。しかし、だ。自分たちの夕食はそういうタイプではなかったはずであった。沈黙の重い、夕食である。
「ご馳走様」と篤が立ち上がり、食器を片付ける。郁もそれを手伝った。篤は、家事も手伝ってくれるときは手伝ってくれる人である。家事は女の仕事、などと亭主関白ではなかった。皿を拭き終え、時計を見る。「うまかった」と去っていこうとする篤を郁は呼び止めた。
「明日、出張なの。だから……夕飯は適当に済ましてくれる?」
 どこに、どんな用で。いつもなら、そう聞き返す。それが二人の出張時の社交辞令のようなものになっていた。
だが――篤は「わかった」とだけ言って自室へと降りていった。郁はエプロンを外す。それから、部屋へと戻って風呂へ入る準備をした。
 もう、寝よう。だめ、疲れちゃった。
 シャワーを浴びながら、篤に聞こえないように声を上げて泣く。水の音が、郁の声を消してくれるはずだ。
 ――理由も、用意していたのに。ねえ、もうそんなこと興味ない?
「篤さんはあたしにもう興味が無い?」
 そう問えたらどんなに楽だろう。だが、それには自分のプライドが邪魔だった。すがりつく女にはなりたくない。湿っぽいのは止めにしよう、と郁は少し強く目元をこすった。

 

 今日も調子は良いな、と篤は思う。辺りは既に静かであった。
「さて、退散するか」と腰を上げる。服も一切汚れていない。あれだけドンパチやっといてよく汚れなかったな、と驚いていた。ドアを景気よく閉め、篤はその場を立ち去った。ドアの外に置いたジャケットを羽織り、車へと乗り込んだ。

 手を差し出すと、男が不審そうに自分を見た。「堂上、笑顔笑顔」と友人に指導されたのを思い出し、にこっと白々しいぐらいの笑顔を見せる。
「ここ、空いてるか?」
「嫌、空いてねえな」とガムを噛みながら男は篤を睨んでいた。さっとテーブルを見る。やっていたのはおそらくBJだな、などと冷静に観察した。
「帰ってくるまで良いだろ?」
 目の前の男ではなく、リーダー格らしき男に篤は尋ねた。物怖じしない篤を気に入ったらしく、座れとその男は合図した。数分後、篤はゲームを支配するに至った。こういう場合にそなえ、幾つも技は用意してある。篤のいる組織はその手の依頼が圧倒的に多い。
――さながら本職も驚くようなトリックスターだ、と以前友人に称されたのを思い出し、篤は苦笑した。
「おいおい、嘘だろ。お前、いくら持っていく気だ?」
 既に賭けた金額の四倍近くになっていた。そろそろ、潮時か。
「お前、どこのもんだよ」とにやにや男は笑いながら言う。特徴、それから雰囲気。
 そんなものを確認しながら篤は答える。
「最近、この辺に越してきたんだ。向こうじゃ、少しは名は知れてるぞ」
「なあ、よかったら俺に教えないか? 何か、欲しいものやるよ」
 と何やら友好的である。そんな言葉に篤は苦笑した。
「何ならシャブでも用意するぜ?」
「いや、そっちは十分持ってる。やってもいいが、そうだな……」
 懐に腕を持っていった。手になじむ無機質のそれを握り締めた。
「あんたの命、なんてのはどうだ?」
 男が理解する前に脳天をぶち抜いた。脇にいた男二人が自分を撃とうと構える。
 ――遅い!
 弾は、三四発で事足りた。相変わらず、スリルの無い仕事だなどと思いながら篤は部屋を後にした。

「ああ、どうだった?」軽快に尋ねながらも友人はナイフを見たまま顔を上げない。切れ味でも確認しているのだろうか。そのまま回しだしていた。何やら、新調したらしく手に馴染みにくいようだ。
「ああ、順調だ」
 ――予定人数を二名ほどオーバーしたけれども。また、報告書に書かないとならないななどと思いながら篤は自分のデスクにつく。しゅっと自分のデスクにナイフが刺さった。
「あ、悪い。手に馴染みにくいんだよな。堂上、何か持ってる?」
 巻きつける紐を渡すと、そのまま小牧はどこかへ向かっていった。
「あ、堂上。机の上にファイルおいといたぞ」と、友人は再び顔を覗かせた。
 ……ファイル?
 現在の自分のデスクは、悲惨な状況である。いつもなら、こうはならないのだが今週は忙しく外へ出ることも多かった。知らずに乗せられた書類の山が、目の前にあった。小牧のナイフがあった場所を払い、「赤いファイル」を探した。書類の山を掘り返し――十分ほど後にそれは見つかった。通称、ラブレターと呼ばれるそれは自分たちの組織のボスからの依頼である。中々信頼がないと受けれない、そういう仕事だ。何故赤なのか――それは恐らく女だからだ、と安易な考えが仲間内で広まっていた。組織にいる殆どの者は知らないが、ボスは女だ。それも、もう引退寸前の。ったく、人使いが荒いなと思いながらファイルを開ける。一枚の写真が貼ってあった。
「手塚光、か」
 どうやら次のターゲットはそういう名らしい。弁護士、か。また難儀な職業だな、と篤は思いながら名前と職業、特徴だけ覚えてファイルを閉じた。そして、そのまま机上の書類を全て隣の気弱な男に任せた。
「処分しといてくれ」
 入って暫く経つが、気が小さくてあまり使い物にならないその男は静に篤の言葉に従った。立ち上がり、コーヒーを淹れに設置してある簡易キッチンへと向かった。

 車を降りる。ネクタイを緩めながら、さて明日の出張は何と言おうか、などと考えていた。また、いつもと同じように言えば良いだろうか。
 郁ははっきりとは言わないが篤が「出張だ」と告げると少し寂しそうにしながら、頷く。その顔を見るのは、篤にとって正直辛い。お前もそうだろう、と言ってしまおうと思ったときもある。だが、傷に塩塗ってどうするんだと思い止める。ベットに腰をかける。そしてまた、昨日のことを思い出していた。
 ……今度、行ってみるか?
 珍しく、自分が弱気になっていることが分かる。篤は時計を見ながら、相談事務所に電話をかけた。
 予約は――一人だ。
 夕食後、郁が明日出張だと言ってきた。自分の出張を言わなくてもよくなったので、ほっとしていた。そのまま自室へ戻り、商売道具の整理を始めた。
 整理を終え、少々目が疲れてきたなと思い階段を上がろうとしたとき――声を聞く。泣き声だ。風呂場のほうであった。音を立てないように、ドアの前に立った。ノブを少し回し、聞き耳を立てる。
 郁が、泣いていた。
 そういうことは、初めてであった。篤は、郁が泣いたのは見たことが無い。正直――焦った。聞いていたことが郁にわかるのを恐れ、そのまま入っていくことは出来ない。いや、郁は嫌がるかもしれないな。そんなことを思いながら、また部屋へと戻った。

 夜も更け、静かになった。郁の寝室のドアを静かに開ける。郁の寝息を聞きながら「すまない」と謝った。

fin.


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